ふたごはたいてい区別がつかない

小学2年生の頃、好きな子をふたごの子と間違えた苦い思い出

おすすめな受験生の数学の勉強の仕方

こんにちは、先日高校生に数学を教えていると、あまり”一般的には”使われない言葉を使って自分自身が高校生に指南しているように感じたので文字に起こしたいと思いました。

注意として、以下に書くことは僕自身の数学経験をもとに良いと思った方法であって、これが正解というつもりもありません。また、受験指南には興味がないため、一般的にはどのように指導されているかは知りません。このブログでは、数学をするに当たって当たり前のことしか書かないため、ユニークさはありません。悪しからず。

 

高校数学において、もっと一般に数学を学ぶにあたってもっとも大事なのは再現性の高さです。これを特に意識するようになるのは、間違いなく大学以降の数学ですが、高校数学においても重要だと言えます。詳しく説明しましょう。

大学数学の話になりますが、一般的な数学専攻の人間は数年前に学んだ定理や命題であっても証明しろと言われれば証明することができます。これは証明を丸暗記しているからではなく、自然な考え方をしていくと証明になっている。という感覚です。

数学を専攻している人間は、ある定理を学ぶ際に、証明の議論の展開を追いかけるのですが、初めて学ぶ際は議論についていくので精一杯です。しかし、じっくり考えていくと、証明は決して技巧的な、天才が思いついたような方法ではなく、考えてみると当たり前の操作を繰り返していると気づくようになります。このレベルに達すると、たとえ証明を忘れたとしても、証明自体が当たり前の操作の連続なため、考えれば証明できます。

 

このような勉強の仕方は高校数学でもできます。多くの高校生は問題に対し、合っている間違えていると2択の解答しか持っていないように感じます。そうではなく、解答を吟味する必要があるのです。そして吟味する中で、その解答の手法に至るプロセスの自然さを見出す必要があるのです。

例えば、m^{4} -n^{4} = 2145を満たす自然数m ,nを満たす自然数をすべて見つけよ。と言われれば皆さんはどうしますか。

僕の経験上、整数問題では、素因数分解や必要条件で候補を絞り込むことが重要です。これは実数や有理数に対して整数の数は圧倒的に少ない。つまり整数という仮定の強さを活かすことが自然な考え方です。僕の場合は、上の問題ではまずm\leq 9を示します。これは10^{4} -9^{4} \geq 2145であることからわかります。このような論法はm,n自然数なのでできることです。

 

議論の再現性の高さは、暗記数学から脱却し、豊かで自由な議論の場を提供する一つの方法だと考えます。

宗教の見方、あるいは雲の眺め方

こんにちは、今日は一日どんよりな曇り空でしたね。明日以降は雨は降らないようなのでまだ気分はよいですね。

 

ここ最近、またラジオをよく聴くようになりました。ラジオは良いもので、自分の趣味とは違う音楽に多く触れることができます。音だけであることを意識したCMも多く、聴いていて飽きません。先日、友人とラジオを聴いていると、ある宗教団体のCMが流れてきたのをきっかけに宗教についての話が始まりました。

僕も友人も特に信仰している宗教もなく、信仰をするという感覚がありません。話の中で、信仰をするのは日常に意味付けをすることではないか。という意見が出ました。

勝手なイメージかもしれませんが、良いことや悪いことが起こったとき、何かしらの意味付けを宗教ではしているイメージがあります。よくよく考えてみると、意味付けができて初めて人間は納得ができる生き物だとも思います。

 

ところで、青空に浮かぶ雲が何かに似ている。なんて会話は誰しも経験があると思います。雲の形には意味なんてありませんが、何かに似ていると思うことで、僕たちは雲に意味付けをしているように思います。人知の及ばない自然現象である雲の形を通して、世界を意味づけるのは何物でもなく、自分自身だと実感するのです。

そのように考えると、名状しがたい現象に直面した時、信仰が生まれるのかもしれません。

夕方の河川敷、夜の田んぼ

こんにちは、明日で5月だというのに寒暖差の激しい日が続きますね。

今週は天気が崩れることが多かったですが、今日はとても良い天気でした。良い機会だったので、数学は早めに切り上げ17時ごろから1時間半ほど河川敷をロードバイクで走りました。

夕方の河川敷は様々な人を見ることができ、とても好きです。地域の少年野球やサッカーチームの練習、ボールで遊ぶ家族、散歩を楽しむ年配の方。どこに目をやってものどかなものです。振り返ってみると、春の涼しい時期は家族で河川敷で遊んだように思います。小さかった頃は愛知県に住んでいたので、長良川の河川敷に行きました。

夕方の河川敷には幸せがいっぱいでのどかなイメージが多い一方で、夜の田んぼはどこか怖いイメージを持っています。振り返ってみると、小学生や中学生の夜は、ときどき漠然とした怖さを感じていました。何が怖かったのか、今でもよくわからないですが、あのような不安はもう味わうことはないんじゃないかなと思います。夜の田んぼの、カエルの鳴き声を聞くたびに、その不安を思い出すのです。

小学3年生の夏、学校の図書室ではだしのゲンを読みました。その夜は怖くて、突然日常が壊れてしまう恐怖に怯えていました。母に、明日はだしのゲンみたいに原爆が落ちてきたらどうしよう。と聞きました。そんなことないから安心するようになだめられたのを覚えています。

昨今は、ウクライナで戦争が起きています。きっとウクライナの子供たちも、同じような不安を抱いていたことでしょう。それが現実になっている恐怖は僕には想像できません。

河川敷の平和と夜の不安を思い出すにつけ、平穏な日常の大切さに気付くのです。

学問に王道なし、しかし

とある数学者のホームページの冒頭*1に、以下のような言葉が載っている。

I heard some people including a professor for my freshmen seminar class say, "Studying mathematics is like climbing a steep, snowy mountain. There is no royal road to learning, but there is only one right road to mathematics.'' Am I on that road? (Jan, 2004)

新入生セミナーで教授を含む何人かが次のように言っているのを聞いた。「数学を学ぶことは険しい雪山を登るようなものだ。学ぶにあたって王道はない、しかしただ一つの正しい道がある。」はたして私はその道に立っているのだろうか。(訳:ぜろりん)

 

学問に王道なし、数学をやるにはハードワークが必要と、大数学者Terence Taoも言っている。ただ一つの道がハードワークなのかは僕にはわからない。むしろ今は、道探しをしているのかもしれない。

*1:高木 俊輔 先生 東京大学数理科学研究科教授https://www.ms.u-tokyo.ac.jp/~stakagi/

人によって変えないものと変えるもの

突然だが、普段からメールを送る際の敬称は「様」で統一している。「さん」では不適切であろうと思う相手への敬称で悩む時間を省略したいからだ。「様」であれば不快に感じる人も少ないだろうし、目上の方にも使って不自然ではないと思う。

敬称は統一してよかったと思う一方で、人によって変えるべきであるものの一つは話の強弱だと思う。

小学生と話すときは易しい言葉を使うべきだし、指導教官と話すときは自分がどれだけ理解しているかをわかってもらえる順序で話を進めるべきである。適切な強弱をつけることができれば、聞き手である小学生はよく理解してくれるだろうし、指導教官は自分の学力に見合ったアドバイスをしてくれるだろう。

しかし、時々自分を大きく見せたくてムズカシイ言葉を使いたくなってしまうことがある。何よりも大切なのは、「人知らずして慍らず」そういう心の余裕なのだと思う。

キレる

今日、ふと考えていた。激昂することを「キレる」という。一体何がキレているのだろうか。日本語的にはきっと「堪忍袋の緒」が切れているのだろう。しかし、ふと自分自身を振り返ってみると、激昂するほどのことがあったときは、その人との関係を断ってしまう。関係が「キレて」しまうのである。

そのように考えてみると、激昂したときに、何が切れているのかは各々違うように思える。社会の中で、僕たちはいろんな"糸"で繋がれている。

ところで、インターネットは非常に便利だと思う。パソコンでネットに繋いだり、用が済めば接続を切ればいい。社会の中よりも遥かに簡単だと思う。

そんなことを思いながら、今日もパソコンの電源を切って眠りにつくのである。

昨今の時事と孫氏の兵法

こんにちは、もうすぐ4月だというのに寒い日が続きますね。風邪をひかないように気を付けてくださいね。

 

ところで、僕は長く伝承されているものは人間の本質であると考えています。例えば数学は2000年以上の歴史がある学問です。ほかにも、論語といった漢文も数学と同じくらい歴史があり伝承されてきているものです。そんな有名な漢文の一つに「孫氏の兵法」があります。戦争の在り方について書かれた書籍です。今日はその中から一部を引用しつつ、最近思うところを話したいと思います。

 

孫氏の兵法は戦争について書かれた書籍ですが、必ずしも戦争を勧めているわけではありません。というのも、本文の中に百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」と書かれています。外交努力により解決できることは外交で解決したほうが良いということですね。孫氏の兵法の作者、「孫武」の思想は「戦わずして勝つ」です。この思想は兵法の序文兵は詭道なりにも表れています。

 

10年以上前の僕は、戦争は人間の本質的なもので避けられない戦争は仕方ないと考えることも多かったですが、いざ映像を通して戦争を見てみると全く異なる印象を持ってしまいます。昨今の世界情勢をみてみると、国際社会の重要な転換点を迎えているように見えます。2000年以上前から戦争は存在するため、戦争は人間の本質的なものなのでしょうが、孫氏の兵法もまた本質であると考えたいところです。