ふたごはたいてい区別がつかない

小学2年生の頃、好きな子をふたごの子と間違えた苦い思い出

人生の分岐点

皆さんこんにちは。暖かくなってきて、春の訪れを感じる季節になりましたね。

今日は、お世話になった先輩方の送別会*1がありました。全員、博士号を取得され春から社会人になられます。特に、その中のYさんからは様々なアドバイスを頂き、今僕が代数幾何を専門にしているのもその方からの影響が大きいです。

雑談をする中で、「代数幾何を今後もやっていくうえでこれに慣れ親しんでいるかは人生の分岐点だよ」*2とのアドバイスを頂きました。人生、というのは研究生活についてでしょう。慣れ親しんでいなければ、研究生活は厳しいものになることでしょう。

 

みなさんには、人生の分岐点は存在しましたか。振り返ってみると、あらゆる選択の数々の中で今の自分が形成されているため、分岐点なんて挙げればキリがないでしょうが、重大な決断をしたタイミングはあるでしょう。

僕には人生の分岐点が2つありました。1つ目は、中学2年生になる春。2つ目は高校3年の梅雨の時期でした。どちらも今の自分に大きくかかわる分岐点です。

中学生になってすぐのころ、勉強をあまりしなくなりました。転校があり、仲のいい友人と別れ、学校が終わればゲームに浸る毎日を送っていました。中学2年に上がる春に、心配した母が僕に塾へ通う提案をしました。あまり乗り気ではありませんでしたが、なぜかふと、今頑張れば人生が変わる気がすると感じました。実際その後、とても努力し、そこそこの高校に進学しました。

高校生のころ、僕にとっては人生の夏休みでした。特定の目標はなく、遊びほうけ、高校を卒業するとニートになることすらうっすら考えられました。テストの成績は学年で下から2番目で、大学の進学なんて考えもしませんでした。高3のはじめに受けた全統センター模試は278点、学年最下位でした。高校3年生の梅雨の時期、これも中3の時と同じですが、人生が変わる気がしてなんとなく頑張り始めました。

 

 

こう振り返ると、人生の分岐点は自分で作っているような気がしてきます。実をいうと、この1年は僕の数学生活にとってはスランプの1年でした。目標を見失い、数学もよくわからない。イメージができない、図が書けない。そんな中で、今日先輩がおっしゃた一言は、確かに人生の分岐点を表してるという気分にさせられます。

別れ間際、「論文楽しみにしている。」といわれました。数学は難しい学問で、一朝一夕では身につかない学問ですが、いつかよい論文を見せられるよう頑張っていきたいと思います。

 

*1:といっても大したものではないが

*2:これ、とは専門的なので省略

こんにちは、いよいよ暖かくなってきて春の訪れを感じます。清少納言枕草子で「春はあけぼの」といったように、冬とは違う温かさを感じる春の朝はとても気持ちがよいですよね。

毎年、春はぽかぽか気持ちいい反面、眠たくなったりぼーっとすることが多くなる季節でもあるので、あまり好きではありません。よくよく考えてみると、数学のやる気が比較的下がってしまうのも春なのかもしれません。

春についての有名な漢詩に、孟浩然の「春暁」があります。

春眠暁を覚えず、処々に啼鳥を聞く。夜来風雨の声、花落つること知る多少

春の眠りの心地よさを詠んでいます。今年の春はこんな心持ちで過ごすのも良いのかもしれないですね。

氷が解けると

先日、古いハードディスクの中身を整理していると、10年ほど前のTwitterアカウントのアーカイブが残っていた。過去のツイートなんて黒歴史ノートみたいなものだろう。痛々しい発言の数々で頭が痛くなった。その中でも、いまの自分から見ると軽蔑したくなるような発言の数々を見るにつけ、昔の思い出は美化されるのだと実感させられる。

その中のツイートの中に、印象深いものがあった。当時、とあるコラムを読んだときに「氷が解けると春になる。」という言葉があった。今になって調べてみると、1980年朝日新聞天声人語で取り上げられた言葉のようで、「氷が解けると、( )になる。」の空欄を埋めさせる問題で、春になると書いて×になった。というのが初出のようだ。

 

当時の僕には、氷は解けると水にしかならなかった。むしろ春にはならなかった。この問題は、科目で言うならば理科だろう。理科としての答えだったら答えは一意に決まってしまう。両親にこの質問をすると、にやにやしながら「春やろうなあ」と言いながら、最後に「いつかわかるよ」と付け足されたのをよく覚えている。

あれから早10年。人生の長さと比べるとまだまだ経験なんてし足りないけれども、今の僕には、氷からは春ができる。そんな心の余裕が生まれた気がする。

受験数学に対しての所感

みなさんこんにちは、雪が降ったりなど寒さが厳しい季節になりましたね。

冬は受験の季節でもありますね。中学生から勉強を見ていた子も、今では共通テストを来週に控える受験生です。時々、進路や勉強について相談をしてきて、受験生らしいひたむきさを感じます。

 

今日の話はタイトル通り、受験数学についてです。みなさんは受験数学に対してどのような印象をもっていますか。ご存じの通り、僕は純粋数学を専攻しているため、普通の人よりかは数学に触れている時間が多いのではと思っています。そんな中で、「受験数学はパターンやセンス、受験数学と大学数学は違う」などの意見をよく見るので、僕なりの所感について話したいと思います。

 

以下の文章は、僕の主観に基づいているのであまり真に受けないでもらいたいです。

まず初めに、残念ながら数学には向き不向きがあると思います。というのは、数学は、数学的なバックグラウンドに支えられた「当たり前」という感覚の多さが重要だからです。

例えば、文字式の展開をa(b+c)=ab+ac、と定義するのはなぜ適切なのでしょうか。これは僕たちが普段計算する中で、たとえば、2*3+2*5=6+10=16=2*8=2*(3+5)が成り立つからです。この計算が、文字式の展開を上のように定義する正当性の根拠なのです。

このように、数学という学問は僕たちの普段の数学的な感覚を抽象化しているのです。そのため、抽象化の元になる具体例をどれだけ知っているかが重要です。*1

 

受験数学について語る前に、大学でやるような抽象数学がどのようなものかについて話したいと思います。

まず初めに、上に述べたような僕たちの感覚を自然に抽象化した概念を定義します。その定義から新しく言えること、すなわち命題や定理を証明します。命題や定理は、「あれ?もしかしてこういうことが成り立つのではないか??」と予想するところから始まります。こういった部分に数学的なセンスが必要なのでしょう。予想すると示したいことができます。証明するために意識するべきことは2点です。自分が今何を仮定しているのか」「自分がいま何を示そうとしているのか」です。

例えば、数学的な具体例ではありませんが、「白色のカラスが存在する」と予想を立てたとしましょう。このとき、存在を示すために具体的に1匹見つけてこれば示せたことになります。なぜなら実際に存在してる証拠になるのですから。この問題において「示すべきこと」は1匹見つけてくることだったのです。

 

受験数学の話に戻しましょう。

受験数学で、計算などはできるけど、問題を解くことが苦手という人が多くいます。どこから手をつけたらいいかわからない、と言う具合です。こういった状況を解決するためには、上に述べたように「示すべきことを明らかにする」ことが大切だと考えいます。当たり前のことじゃないか。と思われると思いますがこれができない受験生は多数います。

例えば、最近扱った以下のような問題だとどうでしょう。

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示したいことは、すべてが素数となるような自然数はないということです。存在しないことを示すのは意外と骨が折れます。なぜなら、上で述べたように、存在することは白いカラスのように1つ例を挙げるだけでいいのですから。そのため、示したいことを存在の話に言い換えましょう。すべての自然数nに対して、上の4つのいずれかが素数でない。すなわち、合成数になる。ならどうでしょうか。実はこの問題は、すべての自然数に対して、上の4つの整数のいずれかが3でない3の倍数になります。

 

示すべきことを吟味することに問題を解く本質があるわけです。そういった点では、受験数学も抽象数学もさほど求められる力や、やるべきことは変わらないわけです。そのため、僕はよく聞く「大学の数学は高校の数学と違うからやめときなさい」と止める教師はなんにも数学をわかってない人だと考えるわけです。

 

受験生の質問対応はいつも、「示すことは何か」と質問し返すところから始めます。言葉にして考える中で自ずと整理されて方針が立つ様子を見るとこちらとしてもうれしいですね。

 

すぐに受験シーズンに突入します。多くの受験生が4月に明るい顔をして大学生活を謳歌できることを願います。

 

*1:そのため、数学ができるようになりたければ、できるだけ小さいころから様々な数学的な具体例に触れる必要があるのです。例えば折り紙など良いでしょう

真の教養人になるために

教養人とは、どういう存在でしょうか。そもそも、教養とは何でしょうか。高校生のとき、書道の先生が以下のように仰っていたことがとても印象に残っています。

「知っていると将来何か得することがある。そういうものを教養というのだと思います。」

その日から、僕は熱心に書道に取り組むようになりました。その経験の中で今でも残っているのは、書道史において最も有名な作品の一つは「蘭亭序(王羲之)」ということくらいですが。

 

教養を「知っていると何か得するもの」だとすると、学生の間に学ぶことは教養の塊なのでしょう。普段使うような漢字の読み書きの力や、計算の力などは言わずもがな私たちの生活において様々な恩恵をもたらせてくれています。ほかにも、美術などではどうでしょうか。以前、国立国際美術館に行った際、ゴッホの作品を鑑賞しました。ゴッホは補色を用いることで鮮やかな色彩を表現しています。絵を見る際に注目する点が増えることにより楽しみも増えることでしょう。

 

それでは、教養人とは何なのでしょうか。2000年以上前の名著、論語の中において君子(=教養人)と小人(=知識人)という考え方が幾度となく出てきます。例えば、以下のような言葉があります。

「君子は泰にして驕らず、小人は驕りて泰ならず」

教養人は落ち着いていて威張らないが、知識人は威張って落ち着きがないという意味です。孔子論語の中で、教養人は教養を持っているだけでなく、優れた人間性を持つべきだと説きます。*1

優れた人間性とはどのようにして身につくのでしょうか。僕が大切にしている2つの言葉を引用して終わりにしたいと思います。

曾子曰わく、吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交りて信ならざるか。習わざるを伝うるか。」

「人知らずして慍らず、また君子ならずや」*2

 

*1:これは思想の話ですが、宗教チックだと思われた方は申し訳ないです。

*2:「他人が自分のことをわかっていないからと言って怒らない。それが本当の教養人というものだ。」  これは、論語の有名な序文の最後の一文です。論語のこの序文には孔子の人生や、それを通して得た考え方が詰まっています。

原因ようわからんけど、完治するまで書く その③(終)

みなさんこんにちは。ますます寒くなってきて布団から出たくない朝が続きますね。

 

その①、その②と発疹の様子について書いてきましたが、症状もずいぶんよくなったため、今回で最後です。

 

7日目以降

7日目以降は、病院で処方された塗り薬とかゆみ止めによってずいぶんよくなりました。特に9日目からは足の一部の発疹を除いてきれいに治りました。

11日目に病院に行きましたが、やはり原因不明の多形滲出性紅斑とのことでした。一般的に原因がわかることのほうが少ないようで、さらに普段飲んでるような薬が原因ではない様子ですので、今後の心配はいらないということです。

あまり珍しくない症状のようですが、今回のように全身に発疹がでることは珍しいようなので、いろいろと運が悪かったようです。

その②でも書きましたが、症状が出ている間に、いろいろな人にご迷惑をおかけ申し訳なかったです。また心配の声も多数いただきありがとうございました。

痒みなどでとてもストレスのある10日間ほどでしたが、跡も残らず治ってくれてよかったです。珍しい病気ではないみたいなので皆さんも症状が出た際は皮膚科に掛かってくださいね。

 

以上、短くなりましたが完結させるために書かせていただきました。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

原因ようわからんけど、完治するまで書く その②

みなさんこんにちは。

いかがお過ごしでしょうか。今回は前回の続きから容態の変化について話していきたいと思います。

 

4日目

朝から相変わらず腕と足に発疹が多かったです。特に腕と足両方にかゆみが出てきたのがつらかったです。処方されたかゆみ止めは、飲んだ30分後にはかゆみが落ち着き、5時間くらい続く印象でした。処方されたのは1日1錠、寝る前に服用だったのですが、あまりの痒さに1日2錠飲んでしまいました。そのため土曜日(ブログで言う3日目)に4日分処方されたのですが、この日の夜にはなくなってしまいました。この日の夜はあまりの痒さに2時間しか眠れませんでした。

この日の経過なのですが、腕の発疹の赤みはかなり落ち着いてきて3日目の真っ赤な感じではなく赤黒い様子に代わっていきました。その代わり二の腕や足が真っ赤になりました。また、今まで腹や胸には発疹は出ていなかったのですが、少しずつ出てくるようになりました。

 

5日目

2時間の睡眠で4時起きでした。処方されたステロイドの薬を塗っていたのですが、あまりよくなる様子はなく、特に痒さがひどかったです。

土曜日(3日目)に大きな病院の紹介状をもらったため、病院へ向かいました。予約は取っていなかったため、かなりの時間待つ旨を受付で伝えられました。結局5時間待つことになり、古戦場が捗ったのはここだけの話です。

診察では、最近の食べたものや、飲んでいる薬、ここ最近の発熱の有無などを聞かれました。発疹の様子などから、多形滲出性紅斑」と診断されました。ウイルスや細菌、薬剤への免疫反応が原因のようです。しかし、原因を特定するのは一般には困難のようです。

抗体の検査と念のための梅毒の検査として、採血をしました。*1処方された薬は、アレルギーの薬を2つと、強めのステロイド系の塗り薬でした。

この日の容態は相変わらずかゆみが強かったです。腕の赤みはほとんどなくなり、赤黒さが残っていました。足は真っ赤から薄い赤色の発疹が全体にある感じでした。

 

6日目

朝起きたときに発疹の様子を確認すると、昨日と特に変わっていない様子でした。ただ、痒さの感じが、むずむずする痒さというよりも、ピリピリ、チクチクする痒さに代わってきました。夕方になると腕の発疹はほとんどなくなり、発疹は足と腹と背中くらいになりました。強い薬だっただけによく効いている印象です。

しかし、不安になることも増えてきました。治ってきた腕の発疹も食後にピリピリとした痒みとともにまた現れるのです。よく考えると発疹が出た前日も大量に小麦系を食べていました。ピリピリした痒みがでた直前もパンやケーキを食べていたり、心当たりがあるので不安です。次回病院へ行くのが来週の月曜日なので、その時に可能であればアレルギー検査をしたいと思っています。

 

まとめ

薬によってずいぶんよくなってきました。痒みでイライラしたり、約束や予定を変更してもらったりと仕方ないとはいえ、多くの人に迷惑をかけてしまいました。ずいぶんよくなったとはいえ、まだまだ痒みや、足の発疹もあるため気を抜かず薬をちゃんと服用していきます。またもしかすると食べ物にもアレルギーがあるかもしれないので注意していきます。このまま何もなければ、次の月曜の診察後に「その③」を投稿してこのシリーズはおしまいにしようかな。

それではまた。

*1:実は、3か月ほど前に諸事情で性病検査はしており、梅毒は陰性でした。