ふたごはたいてい区別がつかない

小学2年生の頃、好きな子をふたごの子と間違えた苦い思い出

真の教養人になるために

教養人とは、どういう存在でしょうか。そもそも、教養とは何でしょうか。高校生のとき、書道の先生が以下のように仰っていたことがとても印象に残っています。

「知っていると将来何か得することがある。そういうものを教養というのだと思います。」

その日から、僕は熱心に書道に取り組むようになりました。その経験の中で今でも残っているのは、書道史において最も有名な作品の一つは「蘭亭序(王羲之)」ということくらいですが。

 

教養を「知っていると何か得するもの」だとすると、学生の間に学ぶことは教養の塊なのでしょう。普段使うような漢字の読み書きの力や、計算の力などは言わずもがな私たちの生活において様々な恩恵をもたらせてくれています。ほかにも、美術などではどうでしょうか。以前、国立国際美術館に行った際、ゴッホの作品を鑑賞しました。ゴッホは補色を用いることで鮮やかな色彩を表現しています。絵を見る際に注目する点が増えることにより楽しみも増えることでしょう。

 

それでは、教養人とは何なのでしょうか。2000年以上前の名著、論語の中において君子(=教養人)と小人(=知識人)という考え方が幾度となく出てきます。例えば、以下のような言葉があります。

「君子は泰にして驕らず、小人は驕りて泰ならず」

教養人は落ち着いていて威張らないが、知識人は威張って落ち着きがないという意味です。孔子論語の中で、教養人は教養を持っているだけでなく、優れた人間性を持つべきだと説きます。*1

優れた人間性とはどのようにして身につくのでしょうか。僕が大切にしている2つの言葉を引用して終わりにしたいと思います。

曾子曰わく、吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交りて信ならざるか。習わざるを伝うるか。」

「人知らずして慍らず、また君子ならずや」*2

 

*1:これは思想の話ですが、宗教チックだと思われた方は申し訳ないです。

*2:「他人が自分のことをわかっていないからと言って怒らない。それが本当の教養人というものだ。」  これは、論語の有名な序文の最後の一文です。論語のこの序文には孔子の人生や、それを通して得た考え方が詰まっています。